2015年6月1日月曜日

地政学リスクの基礎知識(4)地政学的リスクは、宗教戦争という側面を持っている 

(1)宗教戦争には二種類ある。
一つは異教との戦い、もう一つは同じ宗教内部の宗派対立に起因する戦争


バルカン半島の紛争は、異教徒との戦いという側面が大きい。
アフリカ中東地域の紛争は、イスラエル問題を除けば、同じ宗教内部の宗派対立に起因する。


(2)バルカン半島の状況
700年に及ぶオスマン帝国の支配により、バルカン半島は「人種と宗教が入り乱れて居住するモザイク状態」になった。


ユーゴスラビアは第二次世界大戦ではドイツ、イタリアに支配されていたが、パルチザン勢力指導者のチトーによって独立を達成し、その後は安定していた。

しかし、そもそも「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」といわれるほどの多様性を持つ連邦制国家だった。


ベルリンの壁の崩壊、ソ連の解体という流れの中で、連邦制の絆が弱まると各自が独立を目指す分裂の時代に入った。下図は各国の独立した年と勃発した紛争。



1991年から2001年にかけて五月雨式に発生した独立宣言と、それに
反対する勢力による内戦が泥沼化した。


その中でも、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争とコソボ紛争はもっとも凄惨を極め、民族浄化・虐殺・強姦・追放・破壊などを伴う殺戮が長期化した。欧米の介入、NATO軍、国連軍の介入により、ようやく停戦が実現した。


参考、ウィキぺディア


(3)中東アフリカの宗派対立
イスラム教の二大宗派は、多数を占めるスンニ派と少数派のシーア派だ。
シーア派(イラン)に対するスンニ派(サウジ)の憎悪は激しい
特にアメリカが中東政策に関し「サウジべったり」の姿勢を転換し「イランとの融和」を始めて以来、サウジの外交姿勢は強硬になってきた。

イラクとシリアにおける「IS掃討作戦」においても、サウジはスンニ派であるISを温存したいと考えていると言われている。

また、イエメンにおけるシーア派とスンニ派の内戦に対しても、スンニ派連合軍という形式(事実上はサウジ単独に近い)で、スンニ派の暫定政権に肩入れし、シーア派の軍事部隊を越境攻撃している。
古くは、イラン(シーア派)とイラク(多数はスンニ派)が10年近く戦ったイラン・イラク戦争(1980年~1988年)もあった。
(4)同一宗教内部の派閥争いが戦争に発展し長期化することは、イスラム教だけの問題ではない
欧州のキリスト教世界においても、 「カトリック VS プロテスタント」という対立が各国の利害関係と合わさって、国と国との戦争に発展した時期があった。いわゆる欧州の中世がそれである。


宗教戦争は、宗教上の問題が原因の戦争だが、宗教上の対立のみではなく、政治的経済的な利害もからみ深刻な争いとなる。
欧州における主な宗教戦争には、以下のようなものがある。
第1次カッペル戦争(1529年)スイス、(wikipedia、)
第2次カッペル戦争(1531年)スイス、(wikipedia、) 
シュマルカルデン戦争(1546-47年)新生ローマ帝国、今のドイツ、(wikipedia、) 
ユグノー戦争(1562-98年)フランス、(wikipedia、) 
八十年戦争(1568-1648年)、(wikipedia、) 
三十年戦争(1618-48年)、(wikipedia、)
主な宗教戦争だけでも見ても、100年以上も欧州は戦争に明け暮れていた。
中世は精神的に、「キリスト教>世俗政治経済」という構図だった。
カトリック、プロテスタント、双方が王侯貴族をけしかけて自派の勢力拡大を画策した。そのために多くの生命が無駄に消えた。


同国民同士が血を流して争う宗教戦争への反省から、西ヨーロッパでは政治と宗教の分離が進められた
ルネサンスを経て、「世俗政治経済>キリスト教」という関係に逆転した時に、中世から近代への扉が開いた。


21世紀の現代において、イスラム教国家で繰り広げ得られている「原理主義者、過激派のテロ活動」、「聖戦もどき」は、欧州の中世に繰り広げられた無駄な殺戮を彷彿させる。
欧州は膨大な人命の殺戮を経なければ、政教分離に到達できなかったが、中東アフリカのムスリム国家も、その歴史から逃れられないのだろうか?


お金、経済に関する争いなら妥協できる。要は、金で解決する、ということだ。
宗教や民族問題がからむと、妥協が困難だ。特に一神教が関係する争いでは、ほぼ妥協は不可能だ。
世の中、お金で解決できる問題は、簡単な事だ。


==中世に関する豆知識==
4世紀前半ローマ帝国は、キリスト教を公認するとともに、ローマからコンスタンチノープルに遷都した。 
兵力も東に重点的に配備され、蛮族であったゲルマン民族の帝国内への流入が激しくなった4世紀後半ローマ帝国は東西に分裂し、西ローマ帝国は、実質的に切り捨てられた。 西ローマ帝国の滅亡は、古代が終わり中世が始まった事を意味した


7世紀に興ったイスラム勢力により、古代ローマ時代からのパクス・ロマーナの地中海世界は崩壊、ヨーロッパは、イスラムに囲まれ、ヨーロッパ世界は封じ込められた。中世のほとんどの年月、イスラム世界>キリスト教世界、という構図が続いた


ヨーロッパ東部では東ローマ帝国を中心とした東ヨーロッパ世界が形成されていく。
東ローマ帝国の基調は、ギリシア文化と東方正教(ギリシア正教)となり、ビザンツ帝国として15世紀まで続いた。

西ヨーロッパでは、8世紀イスラム勢力の侵入からヨーロッパを守ったフランク王国による統一が進められ、800年カール大帝の西ローマ帝国復興によって、ローマ皇帝とローマ教皇という中世の構造が成立。

中世西ヨーロッパ世界は、世俗世界をゲルマンのローマ皇帝が支配し、精神世界をカトリックのローマ教皇が指導する構造となった

中世ヨーロッパは、ドイツの皇帝とイタリアの教皇という二つの中心を持った世界であったが、帝権と教権の衰退後、各地域の王権の伸張によって16~18世紀の近世絶対王政時代へと移行していった。
中世世界の残骸的な神聖ローマ帝国は、19世紀にナポレオンによって滅ぼされるまで形式的には存続していた。

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