2014年11月23日日曜日

生産性の向上が過疎化を促進したかもしれない

帰省して理解した田舎の村の歴史

父の田舎は、1212年にH氏が源頼朝の命を受け、京都から猿田彦命の御神体を背負い、ここで一村を起こしたのが始まりと伝えられる。その後、人口が増えたのだろうが、現在は多くの村民の子孫が村を去りつつある。

人類の数万年の歴史の中で、九州の田舎の奥地まで人間が住んだ歴史は、ほんの800年で、それも終わりりつつある、ということだ。

田舎の墓参りをしながら考えたのだが・・・
 農業の生産性が低く、一定の面積から収穫される農産物には限度があった時代は、田畑面積当たりの養う人数が少なく、人口の増加は、現在の田畑以外の場所へ、増えた人口が出て行って田畑を開墾するという自然の流れがあったのだろう。

しかし、農業の生産性が向上し、面積当たりの生産高が増えて、不便な田舎の奥地にまでに人口が流出する必要がなくなった
同時に、非農業部門の生産性が農業以上に向上したため、非農業が生み出す付加価値で農産物を有利に購入する事が可能になった。さらには、海外からの購入も有利な条件で可能になった。

人間は生産性の高いビジネスに集まる。
生産性の低い「狭くて細切れな農地」に立脚する田舎から人口が流出するのは必然だったと思う。
生産性の向上が過疎化を促進したかもしれないと思うのだ。

なお、源頼朝の命を受け、京都から猿田彦命の御神体を背負い、ここで一村を起こした、という表現は正確には、「源平合戦で負けた平氏の落人が逃げこんだ人里離れた場所」に平氏残党の追討軍がやって来た、と会社うすべきだと思う。なぜなら、先祖は平氏の子孫だと聞いたことがあるからだ。

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